不動産投資で明るい将来

北側斜線制限とは?

北側斜線制限とは、建築基準法に定められる斜線制限のひとつで、建物北側の道路または隣地の日当たりや風通しの維持のために定められる建物の高さの上限規定のこと。 建物の高さを北側の隣地・道路との境界から一定の高さを起点とする斜線の範囲内に収める必要がある。 不動産投資が長引き、女真人の気風が形骸化すると、女真族と非女真族(契丹族を含む)との割合は1:6ほどであったので、女真の軍事力の弱体化が問題となった。世宗は漢化の傾向に歯止めをかけるために、女真語の普及、四書五経などの漢文献の女真文字へ翻訳・女真語による科挙の実施など様々な政策を打ち出したが、女真の経済的な没落もいちじるしく、女真の弱体化はさらに進んだ。 世宗の後をついで1189年に即位した章宗は漢文化への傾倒が激しく、自ら第二の北宋の徽宗を自認して、絵画・書の作品を残した。また、この時期は国内が安定した事もあって明昌の治とも称されている。しかし、北方モンゴル高原では部族勢力の動きが活発化してタタルや契丹の反乱が激しくなり、金は鎮圧に際してケレイトやモンゴルの助けを借りたためケレイトやモンゴルの勢力が増大し、1206年にモンゴルのチンギス・カンによる高原の統一を間接的に助けた。一方、北方の動乱の情報を得て金が疲弊したと考えた南宋の宰相韓?冑はこれを好機と見て1205年に金に攻め込んだが、金に撃退され、南宋は韓?胄の首と引き換えに和約を結ばなくてはならなかった。 ワラントで7代衛紹王が即位すると、チンギス・カンはこれに対する朝貢を拒否して金と断交し、1211年に自らモンゴル軍を指揮して金領に侵攻した。内モンゴルにいた契丹人を服属させたモンゴル軍は金軍を破って長城を突破し、2年あまりにわたって金の国土を略奪した。1212年には契丹人の耶律留哥が叛乱を起こして分離、現在の吉林省から遼寧省にかけて広がり、モンゴル勢力下に入った(東遼)。敗北を重ねた金では1213年にクーデターが起こって将軍胡沙虎によって衛紹王が殺され、さらに胡沙虎が殺された。相次ぐ敗北により抵抗の手をふさがれた新帝宣宗は同年にモンゴルに対する和議に踏み切り、モンゴルに対する君臣の関係を認めて歳貢を収めることを約束し、皇族の娘(廃帝・衛紹王の皇女)をチンギスに嫁がせる屈辱的な内容の講和を結んだ。 くりっく365によりチンギスは撤兵するが、金は翌1214年にモンゴルを避けるため河南の開封に遷都した。このとき、金の南遷に動揺した契丹の一部が中都(燕京)で反乱を起こしてモンゴルに援軍を求め、チンギスも金の南遷を和約違反と責めて金に対する再侵攻を開始した。1215年夏、半年以上モンゴル軍の包囲にさらされた末に中都は陥落し、金は故地東北を含む黄河以北の大部分を失った。同年、耶律留哥の叛乱鎮圧を担当していた蒲鮮万奴が分離して大真国(東真国・東夏国)を建て、遼東半島の一部から沿海州南部までを支配した。 金は開封を都とし河南地方で辛うじて命脈を保ったが、その後もモンゴルの南進を食い止められず、1232年三峰山の戦いで大敗し軍主力が消滅。その後抵抗もままならず1234年についに開封を包囲、占領された。最後の皇帝哀宗は開封から脱出し蔡州に逃れるところをモンゴルと南宋の連合軍に挟撃されて自殺し、金は滅亡した。 王朝の創建当初、政治機構は女真式のものがとられた。金には建国以前から勃極烈(ボギレ)と呼ばれる君長層がおり、阿骨打は皇帝に即位する以前、その筆頭として都勃極烈を称していた。金の建国後、ボギレ制度が整備され、4段階のランクにわけられたボギレに皇帝の兄弟や部族の有力者が任ぜられ、合議制によって金の政治を議した。 外為、太宗から熙宗の時代に行政機構の改革が行われ、宋や遼にならった中国式の官制が導入されて勃極烈にかわって尚書省や中書省が設置された。しかし、その後も宗室の一族や有力者が政権に大きな影響力を持ち、宰相格の重職は彼らが務めた。熙宗や海陵王はいずれも一族・重臣によって廃位されるが、これは彼らが有力者を無視して強引に皇帝の独裁権をふるおうとしたためという面もある。 また、一般の女真人は猛安と謀克の二段階の組織構造をもった集団に編成された。猛安・謀克は民生制度であると同時に軍事制度であり、猛安と謀克の組織を通じて徴募された女真人の武力が金の領土拡大に大きな役割を果たした。金が北中国を占領すると女真人は集団的に原住地から引き離されて中国各地に屯田させられ、猛安は部族単位から地方単位に再編成された。 世宗から章宗の治世にかけて南宋との戦争が止み平和が長期化すると女真人の気風が形骸化し、経済的な没落が進んだ。さらに漢人に取り囲まれて居住しているために文化的には漢化し、女真人の組織力は弱体化していった。 外為、北宋最後の皇帝欽宗が金によって開封から北に連れ去られ(靖康の変)、北宋が滅亡した後、欽宗の弟趙構は南に移って翌1127年南京(現在の商丘市)で即位して高宗となり、宋を再興した。はじめ岳飛、韓世忠、張俊らの活躍によって金に強固に抵抗するが、秦檜が宰相に就任すると主戦論を抑えて金との和平工作を進めた。 和平論が優勢になる中で、高宗の支持を得た秦檜が完全に権力を掌握し、それまで岳飛などの軍閥の手に握られていた軍の指揮権を朝廷の元に取り返した。1140年には主戦論者の弾圧が始まり、特にその代表格であった岳飛は謀反の濡れ衣を着せられ処刑された。こうした犠牲を払うことにより、1142年、宋と金の間で和議(紹興の和議)が成立し、淮河から大散関線が宋と金の国境線となり、政局は安定したのである。 秦檜の死後に金の四代皇帝海陵王が南宋に侵攻を始めた。金軍は大軍であったが、采石機の戦い(1161年)で勝利し撃退した。しかも海陵王は権力の確立のために多数の者を粛清していたため、皇族の一人である完顔雍(烏禄)が海陵王に対して反乱を起こすと、金の有力者達は続々と完顔雍の元に集まり、海陵王は軍中で殺されたのである。 完顔雍は金の世宗となり、宋との和平論に傾いた。同年、高宗は退位して太上皇となり、養子の趙慎が即位して孝宗となった。南宋と金は1164年に和平を結んだのである(隆興の和議)。 金の世宗、南宋の孝宗は共にその王朝の中で最高の名君とされる人物であり、偶然にも同時に二人の名君が南北に立った事で平和が訪れた。 孝宗は無駄な官吏の削減・当時乱発気味であった会子(紙幣)の引き締め・農村の体力回復・江南経済の活性化など様々な改革に取り組み、南宋は繁栄を謳歌した。 孝宗は1189年に退位して上皇となり、趙惇が即位して光宗となる。光宗は父に似ず、愚鈍であり、皇后の李氏の言いなりになっていた。この皇帝に不満を持った宰相趙汝愚・韓?冑などにより光宗は退位させられた。韓?冑はこの功績により権力の座に近づけると思っていたのだが、韓?冑の人格を好まない趙汝愚たちは韓?冑を遠ざけた。これに恨みを持った韓?冑は趙汝愚たちの追い落とし運動を行い、慶元元年(1195年)、趙汝愚は宰相職から追われ、慶元3年には趙汝愚に与した周必大・留正・王藺・朱熹・彭亀年ら59人が禁錮に処せられた。その翌年には朱熹の朱子学(当時は道学と呼ばれる)も偽学として弾圧される事になった(慶元偽学の禁)。この一連の事件を慶元の党禁という。 韓?冑はその後十年ほど権力を保つが、後ろ盾になっていた皇后と皇太后が相次いで崩御した事で権力にかげりが出てきた。おりしも北の金が更に北のタタールなどの侵入に悩まされており、金は弱体化していると見た韓?冑は南宋の悲願である金打倒を成し遂げれば権力の座は不動であると考え、1206年北伐の軍を起こす(開禧の北伐) 。 しかしこの北伐は失敗に終わる。実際に金は苦しんでいたのだが、それ以上に南宋軍の弱体化が顕著であった。1207年、金は早期和平を望んで、韓?冑の首を要求し、それを聞いた礼部侍郎(文部大臣)の史弥遠により韓?冑は殺され、首は塩漬けにされて金に送られた。1208年に再び和議がもたれた(嘉定の和議)。